司書が必要なんだと思う
前置き
個々のプログラマーのスキル差というのは相当なものだと思う。
その差は「経験」であると言われることが多い。
天性のもの(才能)と、執着心(性格)を除けば、概ね私もそうだと思う。
1000行しか書いたことのないプログラマーよりも、10万行書いたことのあるプログラマーの方が、確実に仕事ができる。
要は経験の差によって生産性が大きく異なる。
その生産性を支えているのは、なんだろう。
一口に経験と言っても、本当にそれは記述したコード量だけなのだろうか。
私が1つ思ったのは、記憶力よりも、情報検索能力の方が重要なのではないかということ。
いくら経験豊富なプログラマーでも、かつての経験すべてを瞬時に引き出せるわけではないし、未知のことにトライしなければならないことなんていくらでもある。にも関わらず、経験豊富なプログラマーは、経験の浅いプログラマーよりも、早く確実にコードを仕上げる。その要因はきっと、前にやったことをすぐに思い出せるようにデータとしてノウハウを蓄積しているというのが1つと、もう1つは必要な情報を的確に素早く見つけ出す情報収集能力に長けているということではないかと思うわけだ。
さて、それもまた、経験なのだろうか?
情報の検索、収集にトライした回数がその精度に直結するとは、私にはちょっと考えにくい。
そして、情報検索能力が高いプログラマーというのが本当に居たとして、そのスキルはどれだけ信頼できるものだろう。
彼らだって、もっと効率よく情報を引き出す能力、あるいはそれができる環境というのを求めているのではないだろうか。
情報の電子化
書籍の電子化は私が10年前に思っていたよりは進んでいない。
だが、それでも町の本屋さんは確実に減ってきているし、図書館に足を運ぶ人も減ってきているはずだ。
司書という資格や職業はそのうちなくなってしまうのだろうか?
否
むしろ今の世の中だからこそ司書が必要なのだと私は思う。
ああ、大いに思いますとも。
インターネットが普及した今、誰でも手軽に、気軽に情報を発信できるようになった。このはてなダイアリーだってそうだ。ページ数の制限もなく、製本のコストも必要なく、売れ残りの心配をすることもなく、かつて「本」として発信されていた情報は、今では不正確な情報や駄文等も含めて、良くも悪くも、爆発的に、大量に、そこら中に転がっているのだ。
本来の司書の役割が本を管理することに限定されているなら、今の世の中では、本に限らず、大小問わず、文字で表された電子データの情報全般に広げるべきであり、それは司書の役割でないというならば、司書ではない何かが必要だと、私はそう思うのである。
要するに、このインターネットの世界では、目的の本、即ち情報を手に入れるのが非常に簡単であり、非常に難しくもあるということである。これは何も本を読みたい人に限った問題ではなく、本、論文、ちょっとした記事などを発信したい人にとっても、この世の中は混沌としているということであって、これらを整理し、秩序を守りながら運用する番人が必要なのだ。私のイメージでは、その役割はまさに「司書」というものに当てはまった。
ここにあるのは混沌とした情報の墓場。
1つ、情報を得たい人からの観点では、駄文やマルチポスト、不正確な情報が検索にかかりまくってしまって、満足する情報を得られない。
1つ、情報を発信したい人からの観点では、自分が書いた本なり文章が情報の山に埋もれてしまって、無駄になるという懸念がある。いかにも「なら書かなくていいや。似たような本はいくらでもあるし」なんて話はさもありなん。
情報整理と検索効率の限界
こういった問題に対して、多くの人は自分なりに、必要なものをブックマークしたり、タグをつけて整理したり、方法はともかく、個人レベルでなんらかの対策をしているはずだ。
しかしながら、その「整理スキル」には個人差があるし、ある人にとって良いやり方が他の人にとっても良いやり方とは限らない。日常生活レベルではそれで十分かもしれないが、企業においてはそれは重要な課題となるだろう。
私はシステム開発の仕事で、いくつかの企業のいくつかのチームに配属されてきた。もちろんどの現場でも、情報を蓄積し、整理する努力はされていた。それぞれ別々の手段で、それぞれ独自のルールを設けて、例えばその時たまたま偉かった人のその時の気分によって…
しかし、どれも到底完璧だったとは思えない。
私もどうするのが一番良いのか、なんてことを考えることもあったが答えは出ていない。今では、Notesが良いのか、Evernoteが良いのか、Qiitaが良いのか、Wikiが良いのか、なんていう次元の問題ではないのではないかと考えるようになった。ドキュメントのフォーマットにしたって、HTML, PDF, ePub, TeX, Word, Excel どれかに統一するなんて、はなから無茶な話だ。
書き手は、一番自分が言い残したいことを最大限に表現できるフォーマットを選択すべきと思う。それはまあ、組織で「この場合はこれ」と決めても良いだろうが、私は基本的には書き手の自由にしてやった方が高い品質のものがアウトプットできると信じている。
(ある程度のガイドラインは必要であろうが)
そして読み手に対しては十分な選択肢があれば良い。
その人にとって必要な情報が何か、必要なものを得るためにどれだけの時間をかけられるかなんて、状況によって異なるのだ。
この両者の間をちょうど良く取り持つのは、相当に困難なことだと思われる。
今はまだ、そこまでではないのかもしれないけれども、今後、電子的な情報が増え続ける一方である事は確実で、とても有益な情報が実は大量に眠っているけれども見つけられないという状況が今よりも酷くなるのは火を見るより明らかである。
今の時代に必要な司書
一方で、そういうこと、即ち、本(ここでは電子的な情報)の収集、蓄積、整理、検索が得意な人も居るはずなのだ。そういう資格があって、そういう仕事があるのならば、是非自分がという人はきっといるに違いない。
そこで私が思ったのは、ある組織において標準的なやり方を管理する司書というものが必要なのではないかということ。世界共通とか、国という単位では難しいかもしれない。会社や学校という単位が良いのか、部署という単位が良いかはわからない。
その組織にとって重要な情報を、いつでも、確実に蓄積でき、かつ、いつでもスムーズに検索、閲覧することができるような環境を維持する人。そういった専門職の人が居たらどれほど助かるだろうなという話。
こういう時代だからか、こういう状況になっても、人々はまず自分たちの手でそれをやろうとはしない。対象が電子データであり、情報量が膨大だから、それはシステムで統合管理すべきことだと、最初から決めつけている。
もちろんシステム化は必要であろう。だが、そこにNotesを導入して運用マニュアルを作成したから終わりという話ではないのではなかろうか。
私はまず、人の手でそれをやってみるべきだと提唱する。
おおよその運用イメージは以下のようなものである。
【執筆】
- ドキュメントの作成者は、司書にドキュメントの発行手続きを行う
- 司書がドキュメントを母体となるシステムにアーカイブする
- この時、司書は必要なタグ付けなり、検索のためのメタデータの登録を行うが、司書以外のメンバーには、母体となるシステムが何なのかとか、どんなメタデータが登録されているということを知る必要はない
【閲覧】
- 閲覧者は、必要な時に、司書にドキュメントの閲覧手続きを行う
- 司書は母体システムから指定されたドキュメントの一覧を検索し、ドキュメントへのリンク一覧を閲覧者に提供する
- この間、それなりの時間を要するものとする
テキストボックスに検索ワードを入力してポチッとするほどのお手軽感覚ではないが、その分、検索結果の質は良いイメージ。
単純な例を挙げれば、傷物語の「エピソード」という登場人物の情報を欲しているとしたら、それに関する情報を正確にリストアップしてくれるということ。
普通に現代の検索エンジンでそれをやろうとしても、「物語に関するエピソード」が色々と混ざってしまうだろう。
(しかし実際に試してみたらGoogleはそれなりにこちらが求めているものを上位に出してくれた。この点Googleの検索エンジンは優秀だが、今私が述べている司書の役割を担えるかと言えばそれは違うと思う)
【収集】
- 閲覧者が司書から提示された情報に不足があると判断した場合、司書に対して書籍の取り寄せ申請を行う
- あるいは司書チームが母体システムの情報不足を判断した場合、パブリックなネットワークからの情報収集を行う
- 場合によっては、司書が外部から書籍を購入するか、あるいは組織内の特定の部門に執筆を要請する
これの執筆者と司書、及び閲覧者と司書間の手続きについては、なるべく早いフェーズで定型化し、システム化すべきであろう。
しかし、中間部分はどういうやり方がベストとは決めきれないだろうし、流動的なものと認識して、メンテナンスしていくべきではないかと想像している。最終的にはAIがそこを担当してくれるのが理想だとは思うのだが、その前段階では、司書という役割が必要だというのが私の意見だ。いずれAIが司書という役割を担当するというだけの話であって、やはりそのポジションはずっと必要なのではなかろうか。
企業レベルでのドキュメント整理のやり方、運用がある程度定型化され、広まり、優秀なAIが開発されたなら、いずれは一般家庭にもそれに似た仕組みが広がるのではないかと期待している。というか、そういう妄想をしたりする。Googleに検索ワードを入力するという作業から、もっと高度な次のステップへと移行できそうな。
なんにせよ、個人個人がブックマークとタグ付けだけで情報を整理していくのは、もはや不可能である。
あとがき
この日記を書いたきっかけとなったのは会社の同僚の一言であった。
「ネットで情報を検索しても駄文が引っかかるとイライラする」
そう、この日記のようにね。駄文がね。引っかかっちゃうんだよごめんなさい!
文章を書くのは嫌いではないけど、誰かに読んでもらうような文章を書くのは難しい。